ふるさとと戦争の名残り

2020年の暑い8月。

今年も終戦記念日が終わり、またしばらくは「太平洋戦争」というキーワードを意識することなく暮らす日々が続きます。

新聞の終戦特集記事を見て思います。
当時のことを直接知る80代以上の人たちにインタビューするような企画は、どんどん少なくなっていくのでしょう。時は確実に流れていきます。

こないだふと「第二次世界大戦が終わってから自分が生まれるまでの年月よりも、自分が生まれてから今までのほうが、すでに長い」という事実に気づき、愕然としました。私は1973年生まれですが、今年で終戦75年ということは、現在から見た折り返し地点は1982年。今38歳の人たちが生まれた年です。今ささっと調べてみたところ、それは「笑っていいとも!」の放送が始まった年であり、映画「E.T.」が劇場公開された年でもあります。

そんなわけで、これまでずっと戦争の話なんて「年寄りから聞くもの(あるいは、聞かされるもの)」のつもりでいたはずなのに、いつの間にか我々のほうが次の世代に伝える立場になっていました。

平和のまち・富士と戦争(表紙)

この7月、富士市の戦争遺跡を巡る新聞「平和のまち・富士と戦争」の編集をお手伝いさせていただきました。お話をくださったのは、毎年夏に富士ロゼシアターで「平和のための富士戦争展」を開催している平和富士市民の会さんです。

今年度の戦争展はコロナのため中止となりました。それでもなんとか戦争のことを子どもたちに伝えていかなければいけないと、代わりに富士市の小中学生向けの冊子を作ることにしたそうです。素材となる元原稿はすでに存在していたのですが、それらを整理して実際に冊子の形にするための企画・編集・デザインの仕事を私たちにご依頼いただきました。

富士市内には、特攻隊員も出撃したという陸軍学校下の飛行場跡や、空襲による爆撃跡、それに戦争関連の慰霊碑も数多くあります。また、たくさんの都会の子どもたちが集団疎開でやってきて、市内の複数の寺院で暮らしました。

そんな戦争遺跡をガイドマップ的に紹介しているのが、この新聞「平和のまち・富士と戦争」です。富士市の後援を受け、平和富士市民の会の皆さんが市内の小中学校を1軒1軒回って配布依頼したとのことで、学校でもらってきた生徒さんも多くいることでしょう。市内の各種施設にも置いてあります。

平和のまち・富士と戦争(中面)

平和富士市民の会の皆さんがボランティアとして尽力され、紙面スペースも限られており、また原爆・終戦記念日のある夏休み前になんとしても完成させる必要があるため、予算・内容量・スケジュールにおいてシビアなコントロールが必要です。そんなわけで今回、プロジェクト・マネジメント力がカギとなりました。私は昔、大企業の全部署が絡むような大型編集プロジェクトのご依頼を受けることが多かったため、こういったいろんな制約をバランスさせながら確実に仕上げるような仕事は得意だし、好きなほうです。

これまで太平洋戦争といえばアジアが主戦場で、国内でも「広島・長崎・沖縄・東京」のような少し遠くの街を舞台にした出来事のように感じていましたが、富士の地元も戦争とこんなに直接的に関わっていたなんて、私自身も今回始めて知りました。いやもしかしたら、幼少期に祖父が教えてくれていたけど、私がうわの空で聞いていただけなのかもしれません。

「戦争のことを伝えていく」というとどうしても俯瞰的な歴史やイデオロギー的な話から始めたくなりますが、「ここで実際に起こったことだ」という身近なリアリティこそが第一歩なのかなと思います。

「平和のまち・富士と戦争」はB4判・4ページの新聞です。街で見かけたら、ぜひ手にとって見て下さい。

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